『運命』は明治時代の小説家・幸田露伴の歴史小説。明の皇帝・建文帝の出亡伝説を題材にした文語体の作品。一九一九年(大正八年)四月、雑誌『改造』に発表。
本記事では『運命』の登場人物、あらすじ、歴史的背景を掲載しています。
登場人物
- 洪武帝
明の初代皇帝。朱元璋。廟号は太祖。 - 朱標
洪武帝の長男。皇太子。朱標の早逝が洪武帝の粛清を加速させ、「靖難の変」に間接的な影響を与えた。諡号は懿文太子。 - 建文帝
明朝の第二代皇帝。朱允炆。廟号は恵宗。洪武帝の孫。 - 斉泰
建文帝の側近。兵部尚書。藩王削減政策を実施して「靖難の変」を引き起こす。 - 黄子澄
建文帝の侍読。太常卿。藩王削減政策を実施して「靖難の変」を引き起こす。 - 方孝孺
建文帝の家臣。儒学者。 - 耿炳文
建文帝の家臣。軍事に優れている老練家。敗北の責任を問われ、大将軍を罷免になる。 - 李景隆
建文帝の家臣。耿炳文の罷免後に大将軍に任命される。軍事的な才能は凡庸。 - 永楽帝
明の第三代皇帝。朱棣。廟号は太宗(後に成祖)。 - 道衍
永楽帝の側近。軍師。僧侶。 - 張玉
永楽帝側の武将。 - 朱能
永楽帝側の武将。 - 鄭和
永楽帝に仕えた宦官。七回の南海遠征を指揮した。
あらすじ
1398年(洪武31年)、明の初代皇帝・洪武帝が崩御、孫の建文帝が即位する。皇帝の地位安定のために建文帝は側近の斉泰・黄子澄の提言を採用して、皇族の実力者たちを次々に粛清する。建文帝の叔父、燕王の朱棣(永楽帝)は危機感を抱き、反乱を起こした(靖難の変)。建文帝は剃髪して逃れ去り、僧侶として各地を放浪して無事に余生を過ごした。一方、永楽帝はモンゴル高原に親征を繰り返し、心の安息が得られないまま、1424年(永楽22年)に陣没した。
プロット
歴史小説を書いている方のためにエピソードを順番に列挙しました。おおざっぱなプロットであるため、参考程度にしてください。
「数」⇨『侠客伝』曲亭馬琴⇨『女仙外史』⇨建文帝即位の経緯⇨建文帝の性質⇨建文帝没落の原因:洪武帝が皇族の権力を過度に強化したこと⇨葉居升の上書「漢の七国の比喩」⇨洪武帝と懿文太子の問答⇨黄子澄の提言⇨洪武帝の遺詔⇨劉三吾の提言⇨靖難の変の発端⇨洪武帝の遺詔「諸王入京会葬の禁止」⇨卓敬の上奏⇨斉泰⇨永楽帝の軍師・道衍⇨相者・袁珙⇨金忠⇨黄子澄の提言・周王朱橚の処分⇨高巍の上奏⇨岷王・朱楩の処分、湘王・朱柏の処分、斉王・朱榑の処分、代王・朱桂の処分⇨朝廷の謀略・永楽帝の佯狂・張信の決断⇨永楽帝の挙兵⇨耿炳文の撤退⇨耿炳文の罷免⇨李景隆の大将軍任命⇨韓郁の上疏⇨高巍の上書⇨鉄鉉と高巍⇨盛庸⇨張玉の死⇨南軍と北軍の内情の比較⇨永楽帝の即位⇨徐輝祖の処分⇨鉄鉉の最期⇨高巍の最期⇨建文帝の家臣たちの最期⇨黄子澄・斉泰の最期⇨練子寧の最期⇨景清の最期⇨卓敬の最期⇨道衍の経歴⇨方孝孺の経歴⇨方孝孺の最期⇨鄭和の大航海⇨以下、建文帝の出亡と永楽帝の対外政策が交互に語られる⇨自跋。
洪武帝の建国~永楽帝の時代
『運命』の舞台は明朝初期(1368-1644年)の中国。「洪武帝の建国~永楽帝の時代」まで歴史の復習をしていきましょう。
明はモンゴル民族・元朝の勢力を追い払い、漢民族の支配を復興した王朝でした。
1368年、朱元璋が皇帝に即位して元号を「洪武」と定めました。明朝以後は「一世一元の制」が定められ、皇帝は元号名で呼ばれるようになったため、朱元璋は洪武帝と呼ばれるようになります。
洪武帝の死後、孫の朱允炆(建文帝)が二代目の皇帝になりました。建文帝は、洪武帝の長男朱標の子供でした。皇太子の朱標が早逝したため、孫の建文帝が即位したというわけですね。
しかし、建文帝の叔父(洪武帝の四男)燕王の朱棣が建文帝に反乱を起こします(靖難の変)。南京を占領することに成功した燕王は永楽帝として即位しました。
なぜ、「靖難の変」は引き起こされたのでしょうか。
『運命』で語られているとおり、建文帝は即位後に皇帝の権力を強化するために、側近の斉泰、黄子澄の提言を受け容れ、藩王削減政策を実施しました。皇族の周王・朱橚、斉王・朱榑、代王・朱桂は庶人に落とされ、湘王・朱柏は焼身自殺に追い込まれ、岷王・朱楩は流刑になりました。
したがって、皇族の粛清に危機感を抱いた燕王の朱棣が「靖難の変」を引き起こしたというわけです。
「靖難の変」において、燕王側が勝利した理由のひとつとして「洪武帝の大粛清」が挙げられます。
晩年の洪武帝は自分の死後のことを心配していました。皇太子の朱標は温厚な人柄であり、優しい性格をしていたため、洪武帝は「私の死後も息子はうまくやっていけるだろうか?」と不安でしかたがありません。そのため、洪武帝は危険因子を排除するために大粛清を行いました。しかも、皇太子の朱標が早逝し、孫の朱允炆(建文帝)が皇太孫になったため、洪武帝の心配は激しくなり、粛清を再開して有能な将軍たちが次々に犠牲になりました。
大粛清の結果、南京の官軍側は有能な将軍を欠いていました。一方、燕王軍は遊牧民族のタタールと何度も戦闘を経験してきた実戦経験が豊富な軍隊でした。そのため、圧倒的な兵力差があったにもかかわらず、燕王軍が勝利することができたわけですね。
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