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『浮雲』二葉亭四迷 日本近代小説の夜明け

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浮雲うきぐも』は二葉亭四迷ふたばていしめいの長編小説。言文一致を採用した日本近代文学の出発点。二葉亭四迷は坪内逍遥の提唱した写実主義の影響を受け、『浮雲』において「写実」の意義を確立しました。

本記事では『浮雲』の簡単なあらすじを紹介してから「近代」という観点から読解を試みます。

概要

  • 『浮雲』二葉亭四迷の長編小説。
  • 内海文三お勢本田昇の三角関係を軸にして進行する。
  • 言文一致を採用した日本近代小説の出発点。

あらすじ

内海文三は某省の准判任御用係(事務官)として働いていたが、課長に媚びなかったため免職になる。

文三は従姉妹のお勢に恋をしていたが、免職になってから、叔母のお政の態度が豹変して、文三を冷遇するようになる。

一方、課長に媚びていた文三の同僚本田昇は出世をしていた。昇は文三の下宿先を度々訪れ、お勢と親密な間柄になる。文三はお勢の心変わりを非難して、二人の関係は決定的に崩壊する。

しかし、お政が縁談を勧めるようになってから、お勢は狂気に取り憑かれたようになる。とうとう、昇も園田の家から足を遠くしてしまった。

ある日、文三はお勢が湯に出かけていく姿を見送って、にっこりとする。お勢の様子が変わった理由はわからないままだが、お勢が帰ってきたら、今一度話しかけてみよう、と文三は決心する。

内海文三・お勢・本田昇 三者三様の近代

二葉亭四迷の『浮雲』は近代小説の出発点であると語られることがあるけれども、なぜだろう? 理由まで考えたことはありますか?

言文一致を採用しているから、心の葛藤を描写したから……

多分、そういう技術上の理由だけではない。

登場人物から近代を読みとることができるから、『浮雲』は近代小説の出発点という評価を受けているのだと思う。

内海文三・お勢・本田昇の三角関係の中には、社会の様相が巧みに織り込まれている。作中には社会的な事件は一切描かれていないけれども、『浮雲』は恋愛小説ではなく、むしろ社会小説に近いのだ。

具体的に、内海文三、お勢、本田昇から、三者三様の近代を観察していきたい。

本田昇 典型的な近代の心性

本田昇は典型的な近代を体現している。

課長に媚びて、媚びて、出世する。

「我輩一臂の力を仮してもよろしい、橋渡しをしてもよろしいが」と、親切な態度を装いながら、実際のところ、文三を陥れ、自分の目的のためだけに行動している。結局のところ、「お勢を芸娼妓のごとく弄ぶ」ことが目的だ。

うーむ、実に卑劣なヤツである。

しかしながら、お勢は簡単に欺かれ、弄ばれるままになっている。

挙げ句の果て、昇は「忠告」を装いながら「負惜しみ」「嫉妬」「痩我慢」と文三を侮辱する。

本田昇は、日本の近代化がもたらした典型的な心性だ。内海文三が「卑劣」と呼び、絶対に許すことができないものだ。

内海文三 怒り、戸惑い

内海文三は本田昇に怒っている。近代の心性に怒っている。

それにもかかわらず、文三の態度は煮えきらない。お勢に自分の気持ちを打ち明けることができないまま、不誠実な本田昇に弄ばれているところをもどかしく思いながら見ている。

おそらく、お勢の存在がなかったら、内海文三はきっぱりとした態度に出ることができただろう。本田昇に絶縁を言い渡し、園田の家を辞去する。ただ、それだけのことだ。

しかし、お勢の存在が、内海文三の態度を複雑にしている。お政だけではなく、お勢まで、近代にあっさりと飲み込まれていくことが文三には信じられない。

つまり、内海文三は、近代の心性に怒りを感じながら、同時に、近代にあっさりと飲み込まれていく世間に戸惑っているのだ。

お勢 お嫁になんぞ行くもんか

さて、『浮雲』最大の謎はお勢である。『浮雲』の読解はお勢の解釈にかかっている、といっても過言ではない。

第十八回において、縁談の話が具体的になった時期からお勢はおかしくなる。

…とにかくややしばらくの間は身動きをもしなかった、そのままで十分ばかり経ったころ、忽然として眼が嬉しそうに光り出すかと思う間に、見る見る耐えようにも耐えきれなさそうな微笑が口頭に浮び出て、頬さえいつしか紅を潮す。(…中略…)突然お勢は跳ね起きて、嬉しさがこみあげて、ただは坐っていられぬように、そして柱にかけた薄暗い姿見に対い、ぼんやり写る己が笑顔を覗き込んで、あやすような真似をして、片足浮かせて床の上でぐるりと回り、舞踏でもするような運歩で部屋のうちを跳ね廻ッて、また床の上へ来るとそのまま、そこへ臥倒れる拍子に手ばしこく、枕を取ッて頭に宛てがい、渾身を揺りながら、締め殺ろしたような声を漏らして笑い出して

第十八回

まさに「狂気きちがいじみた」変化である。

編物の夜稽古に通いだし、化粧に、服装に気を遣う。昇を冷遇するようになり、母親には不気味なほどに優しくなる。本田昇も諦めて、園田の家に疎遠になる。

はたして、お勢という人物をどのように解釈するべきだろうか。難しい問題である。

結末において、「出て行くお勢の後ろ姿を目送って、文三はにっこりした」が、文三はお勢の姿に何を予感したのだろうか。

まとめ

結局のところ、『浮雲』は、内海文三の免職、本田昇の侵入を境にして、崩壊する家庭を描写した物語なのかもしれない。

『浮雲』を端的に表現している文章として、以下の部分を引用する。よかったら、読んでみて、そして、考えてみてください。

心を留めて視なくとも、今の家内の調子がむかしとは大いに相違するは文三にもわかる。以前まだ文三がこの調子をなす一つの要素であって、人々が眼を見合わしては微笑し、幸福といわずして幸福を楽しんでいたころは家内全体に生温い春風が吹き渡ッたように、すべて穏やかに、和らいで、沈着いて、見ること聞くことがことごとく自然に適ッていたように思われた。(…中略…)が、その温かな愛念も、幸福な境界も、優しい調子も、嬉しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になってから、取り分けて昇が全く家内へ立ち入ったから、皆突然に色が褪め、気が抜けだして、ついに今日このごろの有様となった

第十九回

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