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坪内逍遥の生涯・代表作を紹介【作家案内】

坪内逍遥 日本文学

坪内逍遥つぼうちしようよう(1859年-1935年)は主に明治時代に活躍した日本の小説家です。本名は坪内 雄蔵つぼうちゆうぞう。別号に「春のやおぼろ(春廼屋朧)」「春のや主人」など。最初の近代的な評論『小説神髄しようせつしんずい』において、伝統的な「勧善懲悪」の小説を否定し、写実主義の文学を提唱しました。また写実主義理論の実践として『当世書生気質とうせいしよせいかたぎ』を執筆、近代日本文学の発展に貢献しました。他に、シェイクスピア全集の翻訳を達成していて、演劇改良運動にも功績を残しています。

本記事では、坪内逍遥の生涯、代表作の紹介をしています。

坪内逍遥の生涯

安政6年(1859年)5月22日、美濃国賀茂郡太田村(現在の岐阜県美濃加茂みのかも市)の尾張藩代官役所宅において、坪内逍遥は誕生しました。父親の坪内平右衛門信之のぶゆき(後に平之進 ⇨ 其楽きらくに改名)は代官所の手代、母親のミチは尾張国の酒造家の長女でした。

明治2年(1869年)、坪内逍遥が十歳の頃、家族は名古屋郊外上笹島かみささしま村の実家に帰ります。坪内逍遥は寺子屋に入学、秋頃から歌舞伎に夢中になり、貸本屋「大惣おおそう」を利用して江戸文芸に親しみました。

大惣おおそう」は江戸時代の代表的な貸本屋です。大野屋惣八の通称であり、1767年(明和4年)年の創業から150年間名古屋で営業していました。

明治9年(1876年)、坪内逍遥は上京して開成学校普通科(後の東京大学)に入学します。翌年の明治10年(1877年)には、東京大学予備門最上級に編入されました。

坪内逍遥の在学中の仲間たちの中でも一番重要な人物は高田早苗たかたさなえです。高田早苗の影響を受け、坪内逍遥は東洋文学だけではなく西洋文学も読みあさるようになり、東洋・西洋文学の質的な差を意識するようになりました。また、後に坪内逍遥は高田早苗に勧誘され、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師になっています。

明治13年(1880年)の秋には母・ミチが死去、明治15年(1882年)には父・其楽が死去しました。さらに、翌年のフェノロサの政治学の試験に落第して、給費生の資格が剥奪され、学費・生活費を自分で稼がなければならなくなりました。坪内逍遥は下宿屋に塾を開き、予備校で英語を教え、新聞に原稿を書き…… 気楽な学生生活から一転して勤勉に働くようになりました。

苦労を重ねながらも、明治16年(1883年)、東京大学文学部政治学および理財学科を無事に卒業した坪内逍遥は高田早苗に勧誘され、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師になります。

明治18年(1885年)、坪内逍遥は最初の近代的な評論『小説神髄しようせつしんずい』を発表しました。伝統的な勧善懲悪の小説、功利的な政治小説を否定して、写実主義の文学を提唱しました。『小説神髄』は近代文学の基本であるところのリアリズムを理論的に確立した点において非常に重要です。

一方では、明治18年(1885)6月から『当世書生気質とうせいしよせいかたぎ』の分冊刊行を始めていました。『当世書生気質』は『小説神髄』において提唱した写実主義理論を実践した小説でした。しかし、『当世書生気質』は戯作的要素を残していたため、日本近代文学の本格的なスタートは二葉亭四迷の『浮雲』を待つことになります。

明治19年(1886年)に坪内逍遥は永冨謙八の媒酌で本郷根津の娼妓となっていたセンと結婚しました。永冨謙八は坪内逍遥の支援者であり、息子の永冨雄吉(後に日本郵船副社長)の指導を坪内逍遥に任せていた人物です。

明治21年(1888年)、今後は演劇改良事業に貢献することを決意して、明治22年(1889年)に「細君」を「国民之友」に発表した後は、小説の執筆を辞めます。以降は劇作家・翻訳家の坪内逍遥ですね。

明治39年(1906年)には、島村抱月文芸協会を創設、新劇運動の先駆けとなりました。坪内逍遥は戯曲も書いていて、代表作として『桐一葉きりひとは』(明治27年)、『えん行者ぎようしや』(大正5年)が挙げられます。

明治23年(1890年)には坪内逍遥の尽力のおかげで、東京専門学校に文学科が新設され、翌年の明治24年(1891年)には文芸雑誌『早稲田文学』を創刊しました。

坪内逍遥は『早稲田文学』と『しからみ草紙』(森鴎外が主催した文芸雑誌)を舞台にして、森鴎外と「没理想論争」を繰り広げました。没理想論争は近代日本最初の文学論争です。テーマは「シェイクスピアの文学に理想はあるのか?」ということでした。坪内逍遥は〈没理想〉の写実主義の立場、森鴎外は〈理想〉の浪漫主義の立場をとりました。

明治42年(1909年)に沙翁傑作集第一編『ハムレット』を刊行、以後「沙翁全集」として翻訳作業を行い、昭和3年(1928年)に『シェークスピヤ全集』全40巻翻訳の偉業を達成しました。

同年、シェイクスピア作品翻訳事業の完成を記念して、早稲田大学に「坪内博士記念演劇博物館」が開館しました。ちなみに、演劇博物館設立の資金は『逍遥選集』の印税から出ています。

晩年は大正9年(1920年)に熱海水口村に造成した別宅「双柿舎そうししや」で過ごしました。昭和10年(1935年)2月28日、風邪から気管支カタルを併発して死去しました。

坪内逍遥の代表作

坪内逍遥の代表作として『小説神髄』と『当世書生気質』は絶対に押さえておきたいですね。

『小説神髄』

「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」

小説神髄』は伝統的な勧善懲悪の小説および功利的な政治小説を否定して「写実主義」を提唱した文芸評論です。『小説神髄』刊行当時、「近代小説」はあたりまえのものではありませんでした。「文学とは何か?」を考えるために、有意義な読書体験ができますよ。

『当世書生気質』

当世書生気質とうせいしよせいかたぎ』は書生の小町田粲爾こまちださんじと芸妓のの恋愛を軸に明治時代の社会を描写した写実小説です。筋運びは通俗的ではあるけれども、明治時代の書生たち、芸者や遊女の「世態風俗」の描写に優れているところがおもしろいですね。

おわりに

本記事では、坪内逍遥の生涯、代表作の紹介をしました。

  • 『小説神髄』において「写実主義」を提唱。
  • 『当世書生気質』において「写実主義」を実践。
  • シェイクスピア全作品の翻訳を達成。
  • 森鴎外と「没理想論争」。
  • 演劇改良事業に貢献。

日本文学史の知識として上記のポイントは押さえてください。

代表作だけなら、岩波文庫で『当世書生気質』と『小説神髄』を読むことができます。

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