幸田露伴(1867年-1947年)は明治時代に活躍した日本の小説家です。本名は幸田成行。別号に「蝸牛庵」他多数。元禄期の井原西鶴に影響を受け、漢語を駆使した豪快な作風の小説を発表、雅俗折衷体を用いた「擬古典主義」の作家として名声を博しました。代表作に『五重塔』『風流仏』など。
本記事では、幸田露伴の生涯、代表作の紹介をしています。
幸田露伴の生涯
幼年時代
慶応3年7月23日(1867年8月22日)、幸田成行は武蔵国江戸下谷三枚橋横町(現在の東京都台東区)に生まれました。父は幸田成延、母は猷。幸田家は代々表坊主(江戸幕府の職名、下級幕臣)の家系でした。
成行は六歳から「手習い」を、七歳から「素読」を習っていました。「手習い」は習字、「素読」は意味の解釈は加えずに音読をすることですね。
明治8年(1875年)8歳の頃、お茶の水の東京師範学校附属小学校に入学。落第と飛び級を経験して、明治12年(1879年)に12歳で卒業しました。
東京府第一中学校から東京英学校へ
同年、東京府第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学。しかし、翌年に中退して湯島聖堂の東京図書館に通い始め、経書・仏典から江戸文学まで読書の幅を広げていきました。
明治14年(1881年)には東京英学校(のちの青山学院)に入学、日本橋の兄成常の家から通うことになり、兄の影響を受け俳句に親しみます。翌年には菊池松軒の漢学塾に通い始め、漢学の素養を養いました。
電信修技学校を卒業
しかし、明治15年(1882年)に東京英学校を中退した成行は翌年に芝汐留(現在の港区)の電信修技学校に給費生として入学します。生家が落目にあることを気にしていて自活の道を選んだみたいですね。うーむ、温室育ちの文学青年は見習わなければいけません。
さて、明治17年(1884年)、電信修技学校を卒業した成行は築地の中央電信局で電信技手の仕事を始めました。
『小説神髄』との出会い
翌年の明治18年(1885年)は日本文学の歴史において非常に重要な年でした。坪内逍遥の『小説神髄』が刊行されたからです。
同じ頃、成行は北海道西岸の漁港余市の電信分局に赴任していました。当時、余市鰊漁の盛んなところではありましたが、年間に五ヶ月は雪に覆われた僻地でした。田舎に飛ばされたわけですね。
成行は田舎の退屈に耐えられなくなっていたときに坪内逍遥の『小説神髄』に出会いました。伝統的な勧善懲悪の小説、功利的な政治小説を否定し、写実主義の文学を提唱した画期的な書物に成行は衝撃を受けたといわれています。
いざ、突貫紀行
明治20年(1887年)、文学熱に取りつかれた幸田成行は、職場には内緒で余市を脱出して東京に帰ります。いや、わたしたちとは行動力が違いますね(もちろん、仕事はクビになりましたが……)。
この北海道から東京までの旅の記録は後に随筆「突貫紀行」にまとめられました。興味のある方は読んでみてください。
処女作「露団々」の発表
明治21年(1888年)、東京に帰ってきた翌年に幸田露伴は処女作「露団々」を書き、淡島寒月の紹介で依田学海の推奨を受け、明治22年(1889年)に「都の花」に連載されることになりました。小説家・幸田露伴の誕生ですね。
ちなみに「露伴」の号は「突貫紀行」の道中に作った俳句「里遠しいざ露と寝ん草まくら」から得られたものです。
紅露時代
新進作家として出発した幸田露伴は尾崎紅葉の知遇を得て、硯友社に外部から執筆援助をすることになります。
明治22年(1889年)、露伴は尾崎紅葉を通して吉岡書店の「新著百種」に掲載する小説を依頼され、「風流仏」という小説を書きました。「風流仏」は彫刻家の青年を主人公とした小説で、仏教の「十如是」という概念を愛欲の問題と重ね合わせて描くことに成功した作品でした。
「風流仏」に続き、翌年の明治23年(1890年)に「縁外縁」「一口剣」等を発表した露伴は、明治24年(1891年)には「いさなとり」そして「五重塔」を発表します。「五重塔」は谷中天王寺の五重塔を題材にした大工を主人公にした物語。特に結末部の暴風雨の自然描写の迫力に優れていて大好評を博しました。『五重塔』によって幸田露伴は大作家として認められます。
明治20年代、幸田露伴が尾崎紅葉とともに代表的作家として活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれています。あるいは坪内逍遥・森鷗外と合わせ「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもあります。
研究者として
明治26年から明治28年にかけて執筆していた「風流微塵蔵」、明治36年から38年に執筆していた「天うつ浪」は未完に終わりました、以後、研究者としての側面が強くなっていき、史伝の執筆および古典の評釈の仕事が中心になっていきます。
史伝の作品としては「頼朝」「平将門」「蒲生氏郷」などがあります。幸田露伴の史伝物はとにかくおもしろいですから歴史好きの方におすすめです。「蒲生氏郷」は筑摩書房の「ちくま日本文学」で読むことができますよ。
明治41年(1908年)には京都帝国大学の講師に招かれ、京都に移住しましたが、わずか一年ほどで退職して東京に帰っています。大学の雰囲気が肌に合わなかったみたいですね。
晩年
昭和12年(1937年)には第一回文化勲章を授与され、六月に創設された帝国芸術院の会員になりました。70歳の頃だから、大御所として最前線からは撤退した印象がありますよね。ところが、幸田露伴は終わっていませんでした。
1938年(昭和13年)に「幻談」、1939年(昭和14年)に「雪たたき」、1940年(昭和15年)には「連環記」と傑作を次々に発表して世を驚かせました。文化勲章の授与が起爆剤として機能したのかわかりませんが、いや、すごいことですよね。
そして、大正9年(1920年)に開始した『芭蕉七部集』の評釈を昭和22年(1947年)に完了した幸田露伴は同年の7月27日に狭心症の発作を起こし、30日に死去しました。幸田露伴、八十歳。小説家として、研究者として本当にすばらしい仕事を残してくれましたね。
幸田露伴の代表作
幸田露伴の代表作として『五重塔』『風流仏』が挙げられます。
『五重塔』
『五重塔』は谷中感応寺の五重塔建立をめぐる物語。「のっそり」があだ名の十兵衛は、大工の腕は良いのに世渡り下手で周囲から軽んじられています。その十兵衛が何もかも投げ捨てて一心不乱に五重塔建立に挑みます。文語体の五七調のリズムが気持ち良く、特に、後半部の江戸を襲う暴風雨の描写は迫力満点。出版当時、各方面から賞賛され、幸田露伴は大作家として認められるようになりました。
『風流仏』
『風流仏』は彫刻家の青年珠運を主人公とした恋物語です。珠運は日光・鎌倉の彫刻を見学したあと、木曽路を通って奈良に向かいます。旅の途中、花漬売のお辰に出会い恋に落ちますが、ふたりの恋には障害が立ちはだかります。仏教的な解脱思想と女性の肉体美を重ね合わせた幸田露伴の東洋思想が感じられる中編小説です。
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おわりに
本記事では、幸田露伴の生涯、代表作の紹介をしました。
- 『五重塔』の作者。
- 雅俗折衷体を用いた「擬古典主義」の作家。
- 明治20年代、尾崎紅葉と共に「紅露時代」を牽引した。
日本文学史の知識として上記のポイントだけは押さえてくださいね。
日本文学の読書案内は「日本文学の名作【50選】源氏物語から村上春樹まで」をご覧ください。