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二葉亭四迷の生涯・代表作【作家案内】

二葉亭四迷 日本文学

二葉亭四迷ふたばていしめい(1864年-1909年)は明治時代に活躍した日本の小説家です。本名は長谷川 辰之助はせがわたつのすけ。ロシア文学に学び、坪内逍遥の影響を受け、写実主義の理論を深化した評論「小説総論」を発表しました。また「言文一致」の小説『浮雲』を発表して、日本の近代文学の先駆けになりました。他に『あひゞき』『めぐりあひ』などロシア文学の翻訳でも重要な仕事を残しています。

本記事では、二葉亭四迷の生涯、代表作の紹介をしています。

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二葉亭四迷の生涯

東京・名古屋・松江を転々とした幼年時代

元治元年(1864年)2月3日、江戸市ヶ谷合羽坂の尾張藩上屋敷において、二葉亭四迷は誕生しました(生年月日に異説あり)。父親の長谷川吉数(通称・岩蔵)は尾張藩士(尾張藩水野家からの養子)、母親の志津は後藤家の人間でした。祖父の辰蔵の名から「辰之助」と命名されました。

明治元年(1868年)、辰之助が四歳の頃、父親を東京に残したまま、名古屋にある母親の実家に帰ります。野村秋足の塾で漢学を学び、名古屋藩学校に入学後はフランス語を学びました。

明治5年(1872年)、名古屋藩学校を退学して東京に帰り、明治8年(1875年)には、父親が島根県官吏に任命されたため松江に転居します。松江では相長舎で内村友輔から漢学を学びました。明治11年(1878年)に帰京、以後、東京に育ちます。

陸軍士官学校を受験、再三の不合格

明治8年(1875年)、日本とロシアの間に樺太・千島交換条約が結ばれました。ロシアの南下政策に危機感を抱いた辰之助は、十四歳の時から三年連続で陸軍士官学校を受験、三年連続で不合格になりました。近眼が理由で落とされたみたいですね。

東京外国語学校に進学

明治14年(1881年)、東京外国語学校露語科(現在の東京外国語大学)に進学してロシア語の勉強を始めます。軍人の道は諦め、外交官を目指したわけですね。

ところが、長谷川辰之助は語学のために勉強したロシア文学の魅力にすっかりとりつかれてしまいます。当時、東京外国語学校露語科にはグレイという朗読の上手な教師がいました。レールモントフ、ゴーゴリ、カラムジン、トルストイ…… 辰之助はグレイの朗読に魅了され、一九世紀ロシア文学の本質を自然に体得していきました。

また語学の授業ではゴンチャーロフ、ドストエフスキーの作品を読み、当時のロシアの批評家ベリンスキー、ヘルチェンの論文を読破しています。二葉亭四迷の文学の根底にはロシア文学があるわけですね。

東京外国語学校を退学

ところが、卒業直前の明治18年(1885年)、東京外国語学校が東京商業学校(現在の一橋大学)に合併されることになりました。外国語学校の生徒たちは「丁稚でっち学校」に編入されることを不愉快に感じ、一部の学生は退学までしたそうです。辰之助も一時的に東京商業学校に移りましたがやはり不満に感じるところがあり、明治19年(1886年)に退学しています。校長の矢野二郎は長谷川辰之助の才能を惜しみ「出席しなくても卒業させるから」と引き留めましたが、辰之助は断っています。

おもしろいですよね。現在の一橋大学を「丁稚学校」と軽蔑して、東京外国語大学の学生が退学する。文学青年の心意気を感じます。

坪内逍遥との出会い

同じ時期、辰之助は当時世間を賑わせていた坪内逍遥『小説神髄』『当世書生気質』を読み、衝撃を受けました。本格的な日本語の文学評論を著した坪内逍遥に尊敬の念を抱きながら、同時に、ロシアの小説・評論の水準に到達していないと感じ、明治19年(1886年)、『小説神髄』の疑問点を整理してから坪内逍遥の家を訪問します。坪内逍遥二十八歳、長谷川辰之助二十三歳のときでした。以後、二人の親交は生涯続きます。

さて、坪内逍遥の世話になりながら、辰之助は文筆の仕事を始めます。ベリンスキー、ツルゲーネフの断片的な紹介・翻訳、明治19年(1886年)に「小説総論」の発表、明治20年(1887年)には小説『浮雲』を書き上げました。小説家・二葉亭四迷の誕生です。

『浮雲』の発表

二葉亭四迷の筆名の由来はご存知でしょうか?

『浮雲』を出版する際に、坪内逍遥の名義でないと本屋が引き受けなかったため、表紙には「坪内雄蔵(逍遥の本名)」、序文に「二葉亭四迷」の名前が掲載されました。

坪内逍遥の名前を借り『浮雲』を出版したことで自分が情けなくなり、己を叱責する気持ちで「くたばってしめえ!」と二葉亭四迷は叫び、それがそのまま「二葉亭四迷(=「くたばってしめえ」の戯化)」というペンネームになりました。こちらのエピソードは、二葉亭四迷の回想録『予が半生の懺悔』に記されています。

文学者生活の放棄

『浮雲』は好評を博し、二葉亭四迷は新進気鋭の作家として認められましたが、本人は満足していませんでした。二葉亭四迷は尾崎紅葉のような擬古文的傾向にある作家を真の小説家として考え、自分には文学の才能がないと感じ、明治22年(1889年)『浮雲』第三篇を発表後に突然文学を放棄します。

二葉亭四迷は外国語学校時代の旧師・古川常一郎の紹介で内閣官報局に雇われ、英字新聞、露字新聞の翻訳に携わるようになります。

ハルビンへ

明治30年(1897年)に内閣官報局を辞職、明治31年(1898年)に陸軍大学校露語学教授嘱託、さらに海軍編修書記を経て、明治32年(1899年)には再建された東京外国語学校の教授になりました。

三年語の明治35年(1902年)に二葉亭四迷は辞職して、貿易商徳永商会の顧問になり、ハルビンに向かいます。しかし、二葉亭四迷は現地の日本人のありかたに幻滅して、実業家の道を諦め、翌年日本に帰りました。

『其面影』『平凡』の発表

日露戦争後、日本の文壇は変化していました。「武蔵野」の国木田独歩、「破戒」の島崎藤村、「布団」の田山花袋、自然主義の文学が最盛期を迎え、言文一致の口語文が主流になっていました。二葉亭四迷は口語文小説の先覚者として扱われるようになり、新聞社に小説を無理矢理書かせられ、『其面影』や『平凡』を発表して好評を博します。小説家・二葉亭四迷の復活ですね。

ペテルブルグ派遣、ベンガル湾で死去

明治41年(1908年)、朝日新聞特派員としてペテルブルグ派遣が決定しました。出発前から既に肺を病んでいたため、友人に引き留められましたが、二葉亭四迷は譲りません。「僕は人に何らか模範を示したいような気がする。なるほど、人間という者はああいう風に働くものかということを、出来はしまいが、世人に知らせたいような気がするのだ」。

その言葉通り、二葉亭四迷はロシアで勤勉に働きましたが、明治42年(1909年)の冬に風邪をこじらせ、肺炎・肺結核に冒され、四月に帰国を決意します。五日、ペテルブルグを出発、ロンドンから日本郵船の加茂丸に乗船、マルセイユを経由して二十二日ポートサイド到着。六日、コロンボ到着。十日、昏睡状態となりベンガル湾上で死去しました(享年四十五歳)。十三日にシンガポールのバセパンシャン丘で火葬され、三十日に遺骨が新橋に到着しました。

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二葉亭四迷の代表作

二葉亭四迷の代表作として『浮雲』と「小説総論」は絶対に押さえておきたいですね。

『浮雲』

浮雲』は「言文一致」の文体を採用した日本近代小説の出発点です。自己に忠実に生きるために、官僚の社会から家庭から疎外され、自己の矛盾に悩み苦しむ下級役人の内海文三を主人公にした小説です。近代人の心の葛藤を描くことに成功したという点において画期的な小説でした。坪内逍遥の『当世書生気質』と比較して日本近代小説の本格的な出発を感じてみてください。

『小説総論』

およそ形(フォーム)あればここに意(アイデア)あり

二葉亭四迷は坪内逍遥の『小説神髄』に影響を受け、批判的に写実主義の理論を深化した評論「小説総論」を発表しました。「形(フォーム)」と「意(アイデア)」の用語を駆使して、小説におけるリアリズムの解説をしています。原稿用紙十枚未満の短い評論であるため「青空文庫」からダウンロードして気軽に読むことができますよ。

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おわりに

本記事では、二葉亭四迷の生涯、代表作の紹介をしました。

  • 日本近代小説の出発点『浮雲』の作者
  • 「小説総論」の発表
  • 『あひゞき』『めぐりあひ』などロシア文学の翻訳

日本文学史の知識として上記のポイントは押さえてください。

代表作は、『浮雲』は岩波文庫、「小説総論」は青空文庫からダウンロードすることができます。

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