『仮面の告白』は三島由紀夫の自伝的小説。「私」の告白形式で自己の同性愛の遍歴が語られています。
本記事では、『仮面の告白』三島由紀夫のあらすじをエピソードの列挙形式で紹介しています。
あらすじ
以下、『仮面の告白』のエピソードを箇条書きで列挙。
第一章
- 「私」は自分が生れたときの光景を見たことがある。
- 生れて一年たつかたたぬに、「私」は階段の三段目から落ちて額に傷を負った。
- 五歳の元日の朝、「私」は吐血した。
- 汚穢屋(おわいや)を見上げながら、『私が彼になりたい』『私が彼でありたい』という欲求を感じる。同様に、花電車の運転手、地下鉄の切符切りから「悲劇的な生活」を強烈に感受して、そこから「私」が永遠に排除されているように思う。
- 六歳のとき、ジャンヌ・ダルクの絵本に魅力を感じる。しかし、看護婦からジャンヌ・ダルクは女であるということを教えられ、女の男装に説明不可能の嫌悪を感じる。
- 練兵場から帰る途中、家の門前を通る兵士たちの汗のにおいが「私」を駆り立て、「私」の憧れをそそり、「私」を支配する。
- 奇術師、松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)の舞台に魅了され、「天勝になりたい」と願い、母の着物を引きずり出して、居間を駆け回るが、女中に取り押さえられ、別の部屋へ連れて行かれる。
- ある年の暮ちかい雪の日に、親しい医者が「私」にせがまれて、活動写真へ「私」を連れて行く。「私」は活動写真のクレオパトラに魅了され、今度は、妹、弟を相手にクレオパトラの扮装をする。
- 「私」はお伽噺の中の王子を愛する。「私」は執拗に「殺される王子」の幻影を追った。
- 夏祭りの一団が「私」の家の門から雪崩れこみ、神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情は「私」を驚かせ、切なくさせ、「私」の心を苦しみで満たした。
第二章
- 十三歳、「私」はグイド・レーニの「聖セバスチャン」の殉教図に興奮して、「ejaclatio」(射精)をする。
- 中学校二年生の冬、級友の近江は雪に濡れた革手袋をいきなり「私」のほてっている頬に押しあてた。この時から、「私」は近江に恋をした。
- 冬の祭日、整列の時間の前に学生たちは遊動円木から相手を落とす遊びをしていた。「私」の白手袋と近江の白手袋が幾度か平手を撃ち合い、「私」は、「私」が近江を愛していることを近江が理解した、と直感する。
- 初夏、体操の授業中、懸垂の手本を見せている近江の腋窩に生い茂る毛を見た瞬間、「私」にerectio(勃起)が起こる。同時に、そのために近江への愛を自ら諦めたほどに強烈な嫉妬を感じる。
- 暑中休暇、「私」はA海岸で家族と夏を過ごした。「私」は巌のほとりで自分の腋窩を対象にして自慰をする。
- 中学四年、「私」は貧血症にかかり、流血を妄想する衝動に取り憑かれる。
第三章
- 「私」は級友たちの前で女車掌の肉体の魅惑を理解しているふりをする。
- 十四か十五のとき、又従姉の澄子(すみこ)が「私」の腿の上を枕代りにして、「私」は贅沢な喜びを感じる。
- 学校のゆきかえりに、バスのなかで「私」はよく一人の貧血質の令嬢に会った。いつとなく、彼女を心宛てに乗り降りするようになるが、同時に、若い粗野なバスの運転手にも惹かれている。
- 「私」は同級生の額田(ぬかだ)の姉に恋している、と信じこんだ。
- 「私」は年上の青年にばかり懸けていた想いを、少しずつ年下の少年にも移すようになっていた。高等学校へ入ったばかりのやさしい唇となだらかな眉をもった美しい少年、八雲(やくも)から「私」は快楽の賜物をうけていた。
- 昭和十九年、終戦の前の年の九月、「私」は大学に入学した。
- 「私」は友人の草野の家で下手なピアノの音を聞いた。草野の妹のピアノの音は「私」を支配し、宿命的なものとなる。
- 二十一歳のとき、「私」の大学はM市近傍のN飛行機工場へ動員される。「私」は召集令状を受け取ったが、医者の誤診によって即日帰郷を命ぜられる。
- 草野の母から電話がかかり、特別幹部候補生として入隊していた草野に面会するためにM市近傍を訪れる。打ち合わせのために草野の家を訪れ、ピアノの少女、園子を紹介される。
- 待ち合わせ場所の駅で、むこうの階段を降りてくる園子の姿に心を動かされ、「私」の存在の根底をぐらつかせる悲しみを感じる。
- 「私」と草野家の一行はM市で草野に面会する。前日、東京が空襲に遭い、草野家は疎開をすることにした。
- 二三日後、「私」は園子に本を貸すために草野家を訪れる。数日後、再び、草野家を訪れた「私」は園子から「恋文」を受け取る。
- 春、大学は講義を再び閉鎖して、海軍工廠へ学徒動員をされることになった。ある日、疎開した園子と手紙のやりとりをしていた「私」は「お慕いしております……」と記された手紙を受け取る。
- 「私」は扁桃腺の症状で寝込んでいるとき、遠縁の娘、千枝子(チャーコ)と接吻を繰り返す。
- 「私」は園子と接吻する空想に捉えられ、園子の疎開先に遊びに出かけたとき、林の中で園子に接吻をする。
- 草野から「私」と園子の縁談を打診した手紙が届く。「私」は婉曲な拒絶の手紙を書く。
第四章
- 終戦後、園子は別の男性と見合い結婚をした。
- 「私」は大学の友人と一緒に娼館に出かけたが、性的不能に悩まされる。
- ある日、「私」が所用のついでに麻布を歩いていると、偶然、園子に再会する。
- 草野の実家で、再び、「私」は園子のピアノを聴く。稚なげな音色ではなく、豊かで、奔逸するような響きをもち、充実し、輝かしかった。
- 「私」と園子はプラトニックな逢瀬を繰り返す。
- 夏のダンスホール、「私」は二十二三の、粗野な、しかし浅黒い整った顔立ちの若者に心を奪われる。「私」は園子の存在を忘れ、若者が半裸のまま与太仲間と戦い、鋭利な匕首が腹巻きを通して、若者の胴体に突き刺さるという妄想にふける。
仮面に触れることは誰にもできない
三島由紀夫の作品には人工的な雰囲気が漂っている。右翼思想、同性愛、美の崇拝、マチズモ、いずれにせよ素直に受け止めてはならない。三島由紀夫の態度は本質か、仮象か、という議論に愚かにも参加するなら、三島由紀夫は美的感覚に欠けていたために、あるいは美的感覚に欠けていることを無意識に自覚していたために自己演出をする必要があり、作品の内容において、人工的かつ構築性を重視したスタイルになっていったのではないだろうか。
例えば、三島由紀夫の文体の特徴として比喩の多用が挙げられる。Wikipediaでは「修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体」と記載されているけれども、やっぱり三島由紀夫の比喩は無理に背伸びをしていて「ちょっとまずいなあ」と感じるところがある。
それからサドの影響。近頃の大学生はサドに逃げるけれども、元祖は三島由紀夫かもしれない。『仮面の告白』の「地下室の会食」の場面は本当に恥ずかしい。とにかく美意識を誇示することに夢中になっていて、まともに読むことができない。
作家の方向性として別に間違っているわけではない。美的感覚に欠けているなら物語の構成をガチガチにして、徹底的に人工的な修飾をする。次善策として正しい。ただ三島由紀夫は最後まで自分の仮面を見極めることができなかったから、『仮面の告白』は私小説の亜流から抜け出すことができなかった。
結局、仮面に触れることは誰にもできないのだ。三島由紀夫は自伝的小説の題名に「仮面」の語を意図的に採用した。自己の仮面性を宣言した。しかし、三島由紀夫が読者に仮面を提示した瞬間に、認識不能の別の仮面が誕生して三島由紀夫の顔面にべったりとはりついている。「私」が「悲劇的なもの」から拒まれているという認識は正確ではない。実は「私」は「悲劇的なもの」を認識できていない。だから、「私」は背伸びをしているのだ。ただし、三島由紀夫の虚勢は半端ではない。このくらいの虚勢をはることができるならおもしろい。
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