『小説の諸相』は、一九二七年にケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ主催「クラーク記念講座」において行われたE・M・フォースターの連続講義の内容を収録している。小説の主要な要素「ストーリー」「登場人物」「プロット」「幻想」「予言」「パターン」「リズム」を検討した小説論。
ストーリー
ストーリーとは「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」であり、小説の基本的な要素でありながら、同時に下等な要素である。なぜなら、「さて、それから?」という読者の好奇心を刺激するだけだからだ。
我々の日常生活には「時間に支配された生活」と「価値による生活」の二種類がある。「時間に支配された生活」は単純に時間の進行に従って進んでいく生活であり、「価値による生活」は時間の圧制から開放されていて、夢想家や芸術家や恋人たちが経験する生活である。
ストーリーは「時間に支配された生活」を語るが、小説全体は「価値による生活」を語らなければならない。
物語作家は因果関係に厳格である必要はないため、竜頭蛇尾のエピソードを挿入することができる。
登場人物
小説の登場人物(ホモ・フィクトゥス)の「秘められた心の生活」は覗くことができるけれども、現実世界の人間(ホモ・サピエンス)の「秘められた心の生活」は覗くことができない。現実世界では人間の相互理解はありえないが、われわれは小説の登場人物を完全に理解することができる。
フランスの批評家アランは「人間はみな、歴史向きの面と小説向きの面というふたつの面を持っている」と主張する。人間において観察可能なもの、つまり人間の行為や、その行為から推測できる精神生活は歴史の領域に入る。しかし、人間の小説的あるいはロマンティックな面は、「真の情念、すなわち、夢や喜びや悲しみや自己との対話などという、礼節や羞恥心ゆえにふつうは口に出すのを遠慮するもの」を含んでおり、人間のこの面を表現することが、小説の一番重要な仕事のひとつである。
小説の登場人物は「平面的人物」と「立体的人物」の二種類に分類することができる。
- 「平面的人物」…類型的人物、戯画的人物。ひとつの観念もしくは性質からできていて、たったひとつのセリフで表現できる。
平面的人物の最大の長所は、彼らがいつ登場してもすぐにわかるという点である。同じ固有名詞が出てきたからわかるという視覚的な目によってではなく、「あ、またあいつが出てきたな」といういわば読者の情緒的な目によってすぐにわかる。
平面的人物の第二の長所はあとで思い出しやすいという点である。平面的人物は環境によって変化しないため、不変の存在として読者の記憶に残る。
平面的人物がすぐれたものになるのは喜劇的な場合だけである。平面的人物がまじめすぎたり悲劇的だったりすると、たいてい退屈な人物になる。平面的人物がまじめな顔をして「復讐だ!」とか「人類のために胸が痛む!」といった紋切り型のセリフを叫びながら登場すると読者は白ける。立体的人物だけが悲劇を長時間演ずることができ、そして(平面的人物が与える)笑いと便利さ以外の感動を読者に与えることができる。
- 「立体的人物」=説得力をもって読者を驚かすことができる人物。登場するたびに新しい一面を見せる人物。
小説には「平面的人物」と「立体的人物」の二種類の人間が登場し、この二種類の人間の組み合わせによって成り立っている。主役および準主役クラスの立体的人物だけではなく、ワンパターンの役回りの脇役も必要である。
物語の「視点」の問題。
視点の問題より、登場人物をいかに適切に組み合わせるかという問題のほうがはるかに重要である。そして、小説はとにかく読者を圧倒しなければならない。
プロット
ストーリーは「王様が死に、それから王妃が死んだ」であり、プロットは「王様が死に、そして悲しみのために王妃が死んだ」である。つまり、ストーリーの「因果関係」に重点を置いたものがプロットである。プロットは、ふたつの事件を単純に時間の進行に従って語るのではなく、ふたつの事件のあいだの因果関係に重点を置いている。
ストーリーは「それから?」という好奇心だけで読み進むことができるが、プロットは「なぜ?」と頭脳を働かせながら読み進まなくてはならない。ストーリーは「時間と好奇心の世界」であり、プロットは「論理と知性の世界」である。
プロットと登場人物は敵対関係にあり、プロットが小説を完璧に制御する場合には登場人物の描写に制限が加えられることになる。登場人物の性格の発展がたびたび中段されたり、あるいは運命の力のほうが強すぎて、登場人物の影が薄くなる場合がある。
小説の本質的な欠陥は結末部において迫力が落ちることである。第一に、小説家もすべての労働者と同じように、最後は疲れて気力が衰えるため、第二に、登場人物は最初はプロットに協力するけれどもだんだん非協力的になり、作者の手に負えなくなり、最後は作者は期限内に小説を完成させるためにひとりで結末をつけなくてはならなくなる。
幻想
普通の小説は「ストーリー」「登場人物」「プロット」の三つの要素で説明できる。しかし、この三つの要素では説明できない小説は「幻想」と「予言」という要素を検討する必要がある。
「ストーリー」は好奇心を、「登場人物」は人間的感情と価値観を、「プロット」は知性と記憶力を読者に要求する。「幻想」は「追加料金」のようなものを読者に要求する。幻想的な小説家は「この小説には、現実に起こりえないことが書かれている。まず、私の小説全体を受けいれてほしい。それから、いくつかのことを受けいれてほしい」と要求する。
幻想小説は、日常生活のなかに神や幽霊や天使や猿や怪物や小人や魔法使いを登場させたり、逆に、ふつうの人間を無人島や未来や過去や地球の内部や四次元の世界へ送りこんだりする小説である。あるいは、パロディとか改作の技法もある。
ただし、フォースターの定義する幻想小説は、「読者に超自然を受けいれることを要求する場合もあるし、超自然の不在を受けいれることを要求する場合もある」。つまり、幻想は超自然的なことを含むが、必ずしも超自然そのものを描く必要はない。もちろん超自然そのものを描く場合もある。
幻想的小説には「即興的にたわむれに書かれた雰囲気」があり、「」がありきまじめな文学では得られない美しさ、幻想的作家には「幸福な穏やかな気分」がつきまとっている。
予言
予言とは「個人的な問題を超越した全人類的な世界観」のようなものであり、小説家の「文体」すなわち「小説家の声の調子」が暗示している何かである。
予言は「謙虚さ」と「ユーモア感覚の停止」を読者に要求する。
予言者と非予言者の区別。ジョージ・エリオットの場合、日常的なものについて語るときも神について語るときもレンズの焦点は変わらない。ドストエフスキイの場合、登場人物も状況も、つねにそれ自身であると同時に、それ自身以上のものを表している。つまり、つねに「無限のひろがり」を伴っている。
パターン
パターンとは「プロットの構成の美しさ」あるいは「小説のかたちの美しさ」である。ストーリーは「好奇心」に、プロットは「知性」に訴えるのにたいして、パターンはわれわれの「美意識」に訴える。したがって、読者は小説を全体的に眺めることになる。パターンは小説の「美的な要素」であり、小説中のあらゆるものから養分をもらうが、養分の大部分をプロットから受け取る。
「プロットの構成の美しさ」は「人生が提供する豊穣な材料」と敵対関係にあり、厳格なパターンのために登場人物が去勢され、人生の豊穣さを閉め出してしまうという大きな犠牲を伴う。
リズム
リズムには二種類がある。一番目のリズムは、たとえばベートーヴェンの第五交響曲の「ジャジャジャジャーン」という手拍子をとることができるリズム。二番目のリズムは、交響曲全体がもたらすリズムで、こちらは手拍子はとれないし、聞こえない人には聞こえない。
リズムの「反復と変奏」が「ジャジャジャジャーン」の反復と変奏が生み出す効果とそっくりな美的効果を小説において実現している。この「反復と変奏」の長所は登場人物を損なわずに美的効果を得られることである。また、反復と変奏というリズムが小説を内部でつなぎ合わせてくれるため、小説としてのまとまりを保つことができる。
シンボルとは異なっていて、リズムは固定的なものではない。シンボルはまったく同じイメージでくり返し登場するだけだが、リズムは発展することができる。パターンのようにつねに存在するのではなく、あたかも月が満ちたり欠けたりするように現れたり消えたりして、読者を驚きと新鮮さと希望で満たすことができる。
あらかじめ作品の構成を立てて執筆する作家にはリズムは得られない。適当な間隔を置いて、作者のその場その場の衝動に頼るほかない。
二番目のリズムは実例となる小説を挙げることができない。交響曲全体がもたらすリズムで、こちらは手拍子はとれないし、聞こえない人には聞こえない。例えば、第五交響曲を聴いて、オーケストラが全楽章の演奏を終えたとき、われわれは実際には演奏されなかった何かを聴く。全楽章が渾然一体となった新しい何か、これが交響曲全体のリズムである。