『自分ひとりの部屋』(A Room of One’s Own)はケンブリッジ大学のニューナム・カレッジおよびガートン・カレッジで行われた二度の講演を元にしたヴァージニア・ウルフの評論である。1929年初版。「女性と小説」をテーマにしたフェミニズムの重要なテクスト。
あらすじ
全六章構成。
第一章
ヴァージニア・ウルフは「女性と小説」というテーマの意味を考察する。「女性と小説」とは何を含意しているのか。〈女性と虚構 = 女性とはどんなものか〉、〈女性と、女性はどんな文学を書いてきたか〉、あるいは〈女性と、女性についてどんな文学が書かれてきたか〉、いずれにせよ、結論を出すことはできない。ウルフは〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉という意見を提示することにした。
話者の位置はウルフから架空の女性「メアリー・ビートン」=「わたし」に移行する。「わたし」は十月の晴れた日に「オックスブリッジ」で(女性であることを理由に)芝生に侵入したことを典礼係に咎められ、(女性であることを理由に)図書館への入館を紳士に遮られ、憤慨する。男子カレッジでは昼食会に、女子カレッジでは夕食会に参加した「わたし」は、食事の内容に男女間格差があることに不満を抱く。
第二章
翌日、「わたし」はロンドンの大英博物館に向かう。「なぜ男性はあれほど裕福なのに、女性はあれほど貧乏なのか?」「貧困は文学にどう作用するのか?」「芸術作品の創造に必要な条件とは何か?」。しかし、男性著者たちの女性論は「わたし」の疑問に答えてくれない。
「わたし」は、男性たちの女性に向けられた怒り――単純明快ではなく「別のものに偽装する、ややこしい怒り」――について考えを巡らせ、男性たちは、女性の劣等性を強調しているときに男性の優越性が脅かされていることに抗議をしているのだと推測する。
「過去何世紀にもわたって、女性は鏡の役割を務めてきました。鏡には魔法の甘美な力が備わっていて、男性の姿を二倍に拡大して映してきました」と「わたし」は男性心理を分析する。
第三章
夕方、自宅の本棚を前に「わたし」は歴史の中の女性について思考を巡らせる。文学の中の女性は重要人物として描写されているにもかかわらず、歴史書から女性が排除されている。
「わたし」はシェイクスピアの架空の妹、役者の才能に恵まれたジュディスを創造し、彼女の生涯を想像する。ジュディスは学校に通わせてもらえず、家事を押しつけられ、強制的に婚約をさせられる。ロンドンに逃げ出したジュディスは役者や経営者に嘲弄され、芝居の訓練を受けることができないまま、望まない妊娠をして自殺をしたことだろう。
「わたし」は創造的行為に適切な精神状態とはどういうものか、また創造の才能に恵まれた女性が直面する物質的および精神的な側面の妨害について考察する。創造行為をするためには芸術家の精神は「白熱」していなくてはならない。悪意、怨恨、反感、説教、願望……全ての障害物を焼き尽くさなければならないのだ。
第四章
「わたし」は17-19世紀の女性作家の軌跡をたどる。ウィンチルシー伯爵夫人、マーガレット・キャヴェンディッシュ(ニューカッスル公爵夫人)、ドロシー・オズボーン、彼女たちの作品は怒りと憎しみで乱されている。中流階級の女性アフラ・ベーンは女性がペンで稼ぐことができることを証明した。18世紀には中流階級の女性たちが実際にペンで稼ぐことができるようになり、後世のジェイン・オースティン、ブロンテ姉妹、ジョージ・エリオットの傑作に結実した。
しかし、「わたし」はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を読みながら、彼女の<誠実>が憤怒に妨げられていることを発見する。また、女性作家の伝統が浅いために文章のスタイルが定まっていないこと、女性の用途にふさわしい文学形式などの問題を提示する。
第五章
「わたし」は(架空の)同時代の女性小説家メアリー・カーマイクルの作品を読解する。カーマイクルの小説『人生の冒険』の中に「クロエはオリヴィアが好きだった」という言葉を発見して「わたし」は驚かされる。文学の歴史において女性は常に男性と関連したものとして描写されてきた。しかし、カーマイクルは女性同士の関係を描写することによって、女性の描写を試みていたのだ。
第六章
翌朝、「わたし」は部屋の窓からロンドンの街を眺めていて、男女がタクシーに乗り込むところを目撃する。「わたし」は分裂していた心が自然に融合したことを感じ、「男女の調和から最大の満足が得られる」という意見に本能的に賛同する。「わたし」は心にも性別があるのではないかと考え、コールリッジの<偉大な精神は両性具有である>という言葉の意味について考える。創造するためには男性と女性両方の心が働かなければならないのだ。
話者は「わたし」=「メアリー・ビートン」からヴァージニア・ウルフに交替する。ウルフは〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉と結論を再提示する。
現代の「年収500ポンド」と「自分ひとりの部屋」
『自分ひとりの部屋』の出版年は1929年。しかし、ヴァージニア・ウルフが本書で提出した問題は現代社会においてフェミニズムの問題を考えるときにも重要なヒントになる。
ただし、過去と現在では社会的条件が異なっているため、「年収500ポンド」および「自分ひとりの部屋」の現代的な意味を考えなければならない。
まず最初に「年収500ポンド」とは何か。厳密にウン百万円と定義する意味はないかもしれない。要するに、「創作活動を支えるために必要な生活資金を確保しなければならない」ということだ。国民年金保険料は支払猶予申請をしているのか、実家に暮らしているのか、両親の援助は受けることができるのか。まあ、いずれにせよ最低数百万円は欲しいところだ。さらに、芸術家を志しているなら、書籍代、音楽鑑賞、演劇鑑賞、美術鑑賞のための費用が必要である(残念ながら、文化とは本質的に貴族的なものなのかもしれない)。
問題は「年収500ポンド」を獲得するための手段である。大抵の人間は不労所得を持っていないため働かなければならない。年収数百万円を稼ぎたいなら非正規雇用では厳しい。しかし、正社員の場合、創作活動のための時間を確保することができないため本末転倒になる。だから、フリーターとして最低限の生活費を稼ぎながら、芸術鑑賞は諦め、小説の執筆に専念するといったところが現代の小説家志望のリアルな姿ではないだろうか。また、政治的分断が深刻になっているためにまともに働くこともできない芸術家が多数存在しているということも指摘しておきたい。
次に「自分ひとりの部屋」について。現代社会において「自分ひとりの部屋」とは具体的な部屋を指しているわけではない。要するに、「創作活動に専念するための空間」が必要だということだ。そして、自分の空間を確保することができないという問題は複雑化している。
20年前には「パラサイト・シングル」という用語が頻繁に用いられ、実家で生活している未婚者が批判されていた。ところが、雇用の不安定化が進行するにつれ、経済的な理由から実家で生活しなければならないひとたちが増えている。それから、高齢化社会の問題。実家で両親・祖父母の介護をするために実家で生活しなければならないひとたちがいる。「パラサイト・シングル」という用語で若年層を能天気に攻撃している時代ではなくなっているのだ。
本当は「東京のアパート」が理想だ。喫茶店が最後の砦か。たしか、J・K・ローリングは生活保護を受けながらカフェで小説を書いていた。いや、喫煙者の排除が起こっている。ほら、また政治的分断だ(ちなみに、禁煙主義者のあなたが喫煙者のわたしに反論したいと感じたなら、あなたとわたしの間に発生しているものが政治的分断である)。我々は昔の文学青年の道を進むことができない。
問題が複雑な様相を呈しているけれども、現代社会の(ブルジョワジーではない)芸術家はいろいろな制約を受けながら創作活動に臨まねばならないことはたしかだ。
興味深いことに、フェミニズムを念頭に置いていながら男女共通の問題を自然に考えていた。多分、本当に多種多様な問題が絡んでいるからだ。「男性/女性」だけではなく「高齢者/若者」「富裕層/貧困層」「健常者/障害者」「喫煙者/非喫煙者」「資本主義/非資本主義」……きりがないけれども、芸術の問題にいろいろな立場から論理と感情がぶつけられ、議論が錯綜としているため分野横断的に考えなければならない。もし、フェミニズムの問題にフォーカスしたいなら、本記事の問題提起とは別の角度から切り込む必要がある。いずれにせよ、あなたにもぜひ『自分ひとりの部屋』を読み「女性と小説」の問題を考えていただきたい。
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