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『小説の諸相』E・M・フォースター【概要】

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小説の諸相』は、一九二七年にケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ主催「クラーク記念講座」において行われたE・M・フォースターの連続講義の内容を収録している。小説の主要な要素「ストーリー」「登場人物」「プロット」「幻想」「予言」「パターン」「リズム」を検討した小説論。

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ストーリー

ストーリーとは「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」であり、小説の基本的な要素でありながら、同時に下等な要素である。なぜなら、「さて、それから?」という読者の好奇心を刺激するだけだからだ。

我々の日常生活には「時間に支配された生活」と「価値による生活」の二種類がある。「時間に支配された生活」は単純に時間の進行に従って進んでいく生活であり、「価値による生活」は時間の圧制から開放されていて、夢想家や芸術家や恋人たちが経験する生活である。

ストーリーは「時間に支配された生活」を語るが、小説全体は「価値による生活」を語らなければならない。

物語作家は因果関係に厳格である必要はないため、竜頭蛇尾のエピソードを挿入することができる。

『好古家』サー・ウォルター・スコット
『老妻物語』アーノルド・ベネット
『戦争と平和』トルストイ
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登場人物

小説の登場人物(ホモ・フィクトゥス)の「秘められた心の生活」は覗くことができるけれども、現実世界の人間(ホモ・サピエンス)の「秘められた心の生活」は覗くことができない。現実世界では人間の相互理解はありえないが、われわれは小説の登場人物を完全に理解することができる。

フランスの批評家アランは「人間はみな、歴史向きの面と小説向きの面というふたつの面を持っている」と主張する。人間において観察可能なもの、つまり人間の行為や、その行為から推測できる精神生活は歴史の領域に入る。しかし、人間の小説的あるいはロマンティックな面は、「真の情念、すなわち、夢や喜びや悲しみや自己との対話などという、礼節や羞恥心ゆえにふつうは口に出すのを遠慮するもの」を含んでおり、人間のこの面を表現することが、小説の一番重要な仕事のひとつである。

『モル・フランダーズ』ダニエル・デフォー

小説の登場人物は「平面的人物フラット・キャラクター」と「立体的人物ラウンド・キャラクター」の二種類に分類することができる。

  • 平面的人物」…類型的人物、戯画的人物。ひとつの観念もしくは性質からできていて、たったひとつのセリフで表現できる。
ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』に登場するミコ―バー夫人は「あたしは絶対に夫を見捨てません」で表現できる。
スコットの『ラマムーアの花嫁』に登場する召使ケイレブ・ボールダーストーンは「たとえウソをついても、主家の貧乏を隠さねばならぬ」で表現できる。
プルーストの『失われた時を求めて』に登場するパルム大公夫人は「とくに気をつけること」で表現できる。

平面的人物の最大の長所は、彼らがいつ登場してもすぐにわかるという点である。同じ固有名詞が出てきたからわかるという視覚的な目によってではなく、「あ、またあいつが出てきたな」といういわば読者の情緒的な目によってすぐにわかる。

平面的人物の第二の長所はあとで思い出しやすいという点である。平面的人物は環境によって変化しないため、不変の存在として読者の記憶に残る。

ジョージ・メレディスの『エヴァン・ハリントン』に登場する伯爵夫人(平面的人物)とサッカレーの『虚栄の市』の女主人公ベッキー・シャープ(立体的人物)の記憶を比較する。

平面的人物がすぐれたものになるのは喜劇的な場合だけである。平面的人物がまじめすぎたり悲劇的だったりすると、たいてい退屈な人物になる。平面的人物がまじめな顔をして「復讐だ!」とか「人類のために胸が痛む!」といった紋切り型のセリフを叫びながら登場すると読者は白ける。立体的人物だけが悲劇を長時間演ずることができ、そして(平面的人物が与える)笑いと便利さ以外の感動を読者に与えることができる。

  • 立体的人物」=説得力をもって読者を驚かすことができる人物。登場するたびに新しい一面を見せる人物。
「立体的人物」の例として、『戦争と平和』の主要な登場人物、ドストエフスキーの登場人物、プルーストの『失われた時を求めて』の老女中のフランソワーズ、ゲルマント公爵夫人、シャルリュス氏、サン=ルーなど、フロベールの『ボヴァリー夫人』のボヴァリー夫人、サッカレーの『虚栄の市』のベッキー・シャープ、『ヘンリー・エズモンド』のビアトリックス、フィールディングの『ジョウゼフ・アンドルーズ』のアダムズ牧師、『トム・ジョーンズ』のトム・ジョーンズ、シャーロット・ブロンテの特に『ヴィレット』のルーシー・スノウ。
平面的人物と立体的人物の中間的な人物の例として、ジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』に登場するバートラム夫人。

小説には「平面的人物」と「立体的人物」の二種類の人間が登場し、この二種類の人間の組み合わせによって成り立っている。主役および準主役クラスの立体的人物だけではなく、ワンパターンの役回りの脇役も必要である。


物語の「視点」の問題。

視点の問題より、登場人物をいかに適切に組み合わせるかという問題のほうがはるかに重要である。そして、小説はとにかく読者を圧倒しなければならない。

視点が変化する作品の例として、ディケンズの『荒涼館』、アンドレ・ジッドの『贋金つかい』、トルストイの『戦争と平和』。
小説という形式の最大の長所は「認識を拡大したり収縮したりする力(視点の変化はこの力の変化の現れ)」、つまり「いろいろなことを認識したりしなかったりする権利」である。
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プロット

ストーリーは「王様が死に、それから王妃が死んだ」であり、プロットは「王様が死に、そして悲しみのために王妃が死んだ」である。つまり、ストーリーの「因果関係」に重点を置いたものがプロットである。プロットは、ふたつの事件を単純に時間の進行に従って語るのではなく、ふたつの事件のあいだの因果関係に重点を置いている。

ストーリーは「それから?」という好奇心だけで読み進むことができるが、プロットは「なぜ?」と頭脳を働かせながら読み進まなくてはならない。ストーリーは「時間と好奇心の世界」であり、プロットは「論理と知性の世界」である。

「仕掛けの名人」ジョージ・メレディスの『ハリー・リッチモンド』『ビーチャムの生涯』『エゴイスト』。

プロットと登場人物は敵対関係にあり、プロットが小説を完璧に制御する場合には登場人物の描写に制限が加えられることになる。登場人物の性格の発展がたびたび中段されたり、あるいは運命の力のほうが強すぎて、登場人物の影が薄くなる場合がある。

トマス・ハーディの小説の欠点はプロットを強調しすぎていることである。
『帰郷』『森の住人』『ラッパ長』『日陰者ジュード』

小説の本質的な欠陥は結末部において迫力が落ちることである。第一に、小説家もすべての労働者と同じように、最後は疲れて気力が衰えるため、第二に、登場人物は最初はプロットに協力するけれどもだんだん非協力的になり、作者の手に負えなくなり、最後は作者は期限内に小説を完成させるためにひとりで結末をつけなくてはならなくなる。

『ウェイクフィールドの牧師』オリヴァー・ゴールドスミスは結末部で登場人物の生気が失われる典型的な例。
現代の作家たちはプロットの論理に縛られない小説の特性に合った構造を工夫している。
アンドレ・ジッドの『贋金つかい』はプロットにたいする激しい攻撃と小説の構造の基礎としてプロットに代わる何かを見つけようという建設的な試みを含んでいる。

幻想

普通の小説は「ストーリー」「登場人物」「プロット」の三つの要素で説明できる。しかし、この三つの要素では説明できない小説は「幻想」と「予言」という要素を検討する必要がある。

「幻想」と「予言」を本質的な要素として含んでいる小説家として、ロレンス・スターン、ハーマン・メルヴィル、トマス・ラヴ・ピーコック、マックス・ビアボーム、ヴァージニア・ウルフ、ウォルター・デ・ラ・メア、ウィリアム・ベックフォード、ジェイムズ・ジョイス、D・H・ロレンス、ジョナサン・スウィフトなど。

「ストーリー」は好奇心を、「登場人物」は人間的感情と価値観を、「プロット」は知性と記憶力を読者に要求する。「幻想」は「追加料金」のようなものを読者に要求する。幻想的な小説家は「この小説には、現実に起こりえないことが書かれている。まず、私の小説全体を受けいれてほしい。それから、いくつかのことを受けいれてほしい」と要求する。

幻想小説は、日常生活のなかに神や幽霊や天使や猿や怪物や小人や魔法使いを登場させたり、逆に、ふつうの人間を無人島や未来や過去や地球の内部や四次元の世界へ送りこんだりする小説である。あるいは、パロディとか改作の技法もある。

『フレッカーの魔法』ノーマン・マトスン(超自然の単純な例)
『ズーレイカ・ドブスン』マックス・ビアボーム(超自然の複雑な例)
『ジョウゼフ・アンドルーズ』ヘンリー・フィールディング(パロディ)
『魔笛』ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソン(パロディ)
『ユリシーズ』ジェイムズ・ジョイス(パロディ)

ただし、フォースターの定義する幻想小説は、「読者に超自然を受けいれることを要求する場合もあるし、超自然の不在を受けいれることを要求する場合もある」。つまり、幻想は超自然的なことを含むが、必ずしも超自然そのものを描く必要はない。もちろん超自然そのものを描く場合もある。

『トリストラム・シャンディ』ロレンス・スターン

幻想的小説には「即興的にたわむれに書かれた雰囲気」があり、「」がありきまじめな文学では得られない美しさ、幻想的作家には「幸福な穏やかな気分」がつきまとっている。

予言

予言とは「個人的な問題を超越した全人類的な世界観」のようなものであり、小説家の「文体」すなわち「小説家の声の調子」が暗示している何かである。

予言は「謙虚さ」と「ユーモア感覚の停止」を読者に要求する。

予言者と非予言者の区別。ジョージ・エリオットの場合、日常的なものについて語るときも神について語るときもレンズの焦点は変わらない。ドストエフスキイの場合、登場人物も状況も、つねにそれ自身であると同時に、それ自身以上のものを表している。つまり、つねに「無限のひろがり」を伴っている。

『アダム・ビード』ジョージ・エリオット(説教者の文章)
『カラマゾフの兄弟』ドストエフスキイ(予言者の文章)
さらに、予言的小説家はふつうの小説家としても異常にすぐれたところがあり、日常的な世界に新しい光をあてることができる。幻想家と同じく、予言者も「ひとすじの光線」を巧みにあやつり、常識の手垢にまみれたものたちが普段とはまったく違う生気を帯びてくる。予言者の小説には発作的かつ断続的にリアリズムが登場する
ドストエフスキは裁判や階段の様子をじつに辛抱強く克明に描写する。ハーマン・メルヴィルは『白鯨』において鯨からとれるじつに様々な製品についてじつにくわしい説明をする。そしてD・H・ロレンスは『奥地の少年』において、花咲く野原もオーストラリアのフリマントル港もみごとに描写する。
予言的小説はわれわれに歌声のようなものを聞かせる。予言と幻想の違いは、幻想はあちこちにきょろきょろ目を向けるのにたいして、予言はつねにひとつのものに目を向けている予言的小説の混乱は付随的なものだが、幻想的小説の混乱は本質的なものである。
純粋に予言の要素の実例となる小説家はドストエフスキイ、メルヴィル、D・H・ロレンス、エミリー・ブロンテの四名である。
『カラマゾフの兄弟』ドストエフスキイ
『白鯨』『ビリー・バッド』ハーマン・メルヴィル
『恋する女たち』D・H・ロレンス
『嵐が丘』エミリー・ブロンテ

パターン

パターンとは「プロットの構成の美しさ」あるいは「小説のかたちの美しさ」である。ストーリーは「好奇心」に、プロットは「知性」に訴えるのにたいして、パターンはわれわれの「美意識」に訴える。したがって、読者は小説を全体的に眺めることになる。パターンは小説の「美的な要素」であり、小説中のあらゆるものから養分をもらうが、養分の大部分をプロットから受け取る。

『タイス』アナトール・フランス(砂時計のかたちをした小説)
『ローマの絵』パーシー・ラボック(大きな輪のかたちをした小説)

プロットの構成の美しさ」は「人生が提供する豊穣な材料」と敵対関係にあり、厳格なパターンのために登場人物が去勢され、人生の豊穣さを閉め出してしまうという大きな犠牲を伴う。

『使者たち』ヘンリー・ジェイムズ(砂時計のかたちをした小説)は、厳格なパターンが勝利をおさめているために、登場人物の種類が限定され、登場人物の構造が貧弱である。

リズム

リズムには二種類がある。一番目のリズムは、たとえばベートーヴェンの第五交響曲の「ジャジャジャジャーン」という手拍子をとることができるリズム。二番目のリズムは、交響曲全体がもたらすリズムで、こちらは手拍子はとれないし、聞こえない人には聞こえない。

一番目のリズムの例として、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に登場するヴァントゥイユのソナタの「小楽節」が挙げられる。

リズムの「反復と変奏」が「ジャジャジャジャーン」の反復と変奏が生み出す効果とそっくりな美的効果を小説において実現している。この「反復と変奏」の長所は登場人物を損なわずに美的効果を得られることである。また、反復と変奏というリズムが小説を内部でつなぎ合わせてくれるため、小説としてのまとまりを保つことができる

シンボルとは異なっていて、リズムは固定的なものではない。シンボルはまったく同じイメージでくり返し登場するだけだが、リズムは発展することができる。パターンのようにつねに存在するのではなく、あたかも月が満ちたり欠けたりするように現れたり消えたりして、読者を驚きと新鮮さと希望で満たすことができる。

あらかじめ作品の構成を立てて執筆する作家にはリズムは得られない。適当な間隔を置いて、作者のその場その場の衝動に頼るほかない。

二番目のリズムは実例となる小説を挙げることができない。交響曲全体がもたらすリズムで、こちらは手拍子はとれないし、聞こえない人には聞こえない。例えば、第五交響曲を聴いて、オーケストラが全楽章の演奏を終えたとき、われわれは実際には演奏されなかった何かを聴く。全楽章が渾然一体となった新しい何か、これが交響曲全体のリズムである。

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