広辞苑第七版「ひゃくだんな【百檀那・百旦那】」p.2489
ひゃくだんな【百檀那・百旦那】
盆・暮などの布施に百文ほどしか出さない、けちな檀那。
第5回の語は「ひゃくだんな【百檀那・百旦那】」である。字面から一瞬、マジメな仏教用語かと思いきや、語義を読んで拍子抜けした。「百檀那」とは、お盆や年の暮れに、わずか百文ほどしか布施を出さない、ケチな檀家さんのことをいうらしい。つまり、普段は信仰心があるように振る舞いながら、いざ布施の時期になると、さいふのヒモを締めるひとたちのことをからかっているわけだ。
百文とは、現代の貨幣価値でいえば数千円くらいだろうか。江戸時代の貨幣価値は常に変動していたうえに、算出方法もいろいろあるため、正確なところはわからない。
ところで、この「百檀那」という言葉には、信仰と金銭との関係について、なんとも複雑な含意がにじんでいるように思われる。
言葉は時代の要請から生まれる。信仰心の篤い時代には、こうした語が信仰心の薄いひとたちをわらうためにできたのだろう。だが、宗教が稀薄になった現代社会において、「百檀那」は日常語から滑り落ちてしまっている。むしろ、「百檀那」を責め立てるという行為のほうが、「布施をしないものは地獄行き」というような悪質な新興宗教の論法を連想させる。
そう考えると、現代の布施は百文くらいがちょうどよいのかもしれない。百檀那、じつにけっこうではないか。