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【連載第18回】今日の広辞苑「が」

今日の広辞苑18 エッセイ
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〘助詞〙
❶(格助詞)
①体言及び体言に準ずる語に付く。連体格を示す。前の体言が後の体言に所有・所属などの関係で続くことを示す。同じ連体格に「の」があるが、「が」は、前の体言に「我(わ)」を始めとして話し手側の人間を受けることが多く、能動的主体としてとらえる。「の」に比べ、低い敬意で遇するととらえられることもある。→の。
㋐所有・所属を示す。後の体言が省略された形で使われる場合もある。
㋑後に来る語の数値を具体的に示す。
㋒体言、活用語の連体形に付き、下の「ごと」「ごとし」「まにまに」「からに」「むた」などの形式名詞の内容を示す。
②後に述べることをもたらしたものを示す。
㋐それを生み出したものを取り出して示す。一般には主語を示すとするが、主語を述語の主体ととらえるとすると、主体とならない「私が歯を抜いた病院」のような言い方もある。日本語では具体的な内容の語に付くのが本来で「運命が私の一生を変えた」の「運命」のような抽象名詞に付くのは明治以降の言い方。古くは述語が連体形となったり、条件句であったりなど、従属節の中で用いられた。中世に終止形で言い切る文でも使うようになった。同じように主語を示す働きのある「は」との違いを、「が」は主語を示し、「は」は題目を示す、あるいは、「が」は初出の情報を示す、「は」は既出の情報を示す等と区別する説もある。
ⅰ(多く話し手を指示する語に付く)自ら進んでそれをもたらしたものを示す。話し手以外に付く時は、進んでそれをしたとして責める思いのこもることがある。「君が黙っているなら、私-言う」「誰も行かないから、彼-行った」「私-コーヒーだ」
ⅱ(話し手以外に付いて)話し手が関わらずに起こった事態のもとになったものを示す。「雨-降って来た」「海-美しい」「彼-山田さんだ」「油-切らしてある」「急に予定-変更した」
㋑後の情意を表す形容詞、可能の表現などに続け、その原因・条件となったことを示す。述語の対象を示すととらえる説もある。現代語では「が」の代りに「を」の使われることもある。「故郷-恋しい」「この本-私には面白い」「歩くの-楽しい」「本-買える」
③活用語の連体形に付いて、その動作主体との位置関係を表す。
④後の「も」と呼応して「…が…でも」の意。
⑤(後に続くべき語句を省略して)驚きや非難の意を込めて示す。「あの人-。信じられない」
⑥代価を表す語を受けて、それ相当の分量を表す。「…分」の意。
❷(接続助詞)活用語の連体形を受ける。❶2㋑の用法から、前後の句の動作主体の異なる例が出て来て成立した。
①前後の句を接続し、共存的事実を示す。「…ところ」などの意。「きのうお訪ねしました-、たいそうお元気でしたよ」
②転じて、前後が反対の結果になり、食い違う事柄に移行したりする意を表す。「…けれども」の意。「声をかけた-、答えがなかった」

③下文を略して、不審や不安を表明したり、軽い感動を表したりする。「あしたも天気だとよい-」
④推量の助動詞を受けて二つの事柄を列挙し、そのいずれにも拘束されない意を表す。…と。…とも。「雨が降ろう-風が吹こう-行く」
❸(終助詞)
①相手の注意をうながしたり、念を押したりする。「…が、それでよいか」「…ぞ」の意。「みんな困っているんだ-」
②(疑問の「か」の転ともいう)希望を表す。上に「し」「てし」「にし」を添えて「しが」「てしが」「にしが」とする。また「がな」「がも」「もが」「もがな」「もがもな」となることもある。後世には「がな」が主に用いられた。

〘接続〙
(接続助詞からの転用)であるが。だが。「おとなしい。-、酔うと人が変わる」

広辞苑第七版「が」p.470

※「が」の項目は膨大であるため、古典からの用例は省略する。太字は筆者。現代でも見かけることのあるをピックアップした。

第18回の語は助詞の「が」である。

広辞苑の「が」は長い。最も一般的な用法は、❶②「後に述べることをもたらしたものを示す」だ。主語を示す「が」である。回りくどい表現がされているものだが、しかたない。格助詞「が」の用法は多岐にわたり、しかも複雑であるのだから。

たとえば、「が」と「は」の違いを簡潔に説明することはむずかしい。

広辞苑に紹介されている他説は2種類。

  • 「が」は主語を示し、「は」は題目を示す。
  • 「が」は初出の情報を示す、「は」は既出の情報を示す。

主語・題目説は説得力がある。「題目」とは、いわば「テーマ」のようなものである。「太陽は明るい」というとき、「太陽」をテーマにした文章であることを「は」は示す。「太陽が明るい」というときの「が」は単純に「太陽」が主語(サブジェクト)であることを示している。基本的には、これですっきりいけそうである。

ただ広辞苑が例として挙げている「私が歯を抜いた病院」のようなケースもある。もちろん、「私」が主体となり、自分の歯を抜いたわけではない。歯医者が主体となり、「私」の歯を抜いたのだ。ただこの場合、実質的な主語が「私」なのかもしれない。「私」が主体的に病院に行ったのだ、というニュアンスが感じられる。

試しに「私の歯を抜いた病院」とすると、つまり主体を削除して「私の歯」を目的語にすると、妙に客観的な語りに感じられる。友達と道を歩いているときにこんなことをいわれたら、なんだかギョッとする。「私が」の方が、自分のことを話しているんだなと感じられないだろうか。

「私は歯を抜いた病院」が成立しないのはなぜだろうか。修飾部では「は」を用いることはできない、つまりテーマを提示することはできないということか。「病院」が「私が歯を抜いた」に修飾されているから、「病院」に比重が置かれているのかもしれない。

おそらく、「が」と「は」の違いを簡潔に説明することはできない。言語とは複雑なものなのだから、それがあたりまえだ。主題と題目、既出と初出、他にもさまざまなアプローチがありそうである。また、複数の視点を組み合わせて総合的に考える必要もありそうだ。

格助詞だけで文字数がいっぱいになってしまったから、他の用法についてはまたの機会に書くことにする。しかし、「が」は一文字のくせに、やたらに仕事を引き受ける。日本語で文章を書いていると、「が」に悩まされることがよくあるが、また頭がこんがらがってしまった。

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