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『悪魔祓い』ル・クレジオ 西欧文明批判とインディオ礼賛の書

森の先に川 外国文学

本記事では、2008年にノーベル文学賞を受賞したJ・M・G・ル・クレジオの『悪魔祓い』の概要をまとめています。

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概要

『悪魔祓い』はフランスの小説家、J.M.G.ル・クレジオのエッセイ。ル・クレジオは、1970年から1974年までパナマの密林でインディアン(エンベラ族)と生活をした。このときの体験が『悪魔祓い』に描き出されている。本書によって、1972年にヴァレリー・ラルボー賞を受賞。原題「Haï」はインディオの言葉で「力」を意味する。

「タヒュ・サ」―すべてを見る眼―「ベカ」―歌の祭―「カクワハイ」―悪魔を祓われた肉体―、の三部構成。<インディオたち>と<わたしたち>の写真を掲載している。

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「タヒュ・サ」―すべてを見る眼―

第一部はニューヨークの航空写真から始まる。ル・クレジオのインディオ生活礼賛は常に、西欧文明批判と表裏一体をなしている。

ル・クレジオは、都市文化の終焉を宣告して、インディオの「しるし(シーニュ)」が、再び、我々の思想、言語に活力を与える世界を夢想する。

わたしたちの言語は世界を支配することを望んでいる。

わたしたちの思想は世界を解き明かすことを望んでいる。

しかし、実際には、言語は世界の一部であり、思想は世界の表面に過ぎなかった。

そして、ル・クレジオはインディオの女性を礼賛する。

「女の美しさ。はじめは理解できず、困惑させられ、不安にさせられてしまう美しさ。その美しさはあまりにも奇蹟的だし、だれもみなひとしく美しいので、まるで、まやかしのように思えてしまう」

「インディオの女の美しさは光り輝いている。美しさは、内面から来るのではなく、肉体のあらゆる深みからやって来る。…(中略)…インディオの美しさは目だたないし、また目だつことを求めてもいない。それは侮蔑でもなければ、挑発でもない。インディオの美しさは、ただ、勝ち誇って、生々としてそこにある」

あるいは、「インディオの若い女性ディビュビュ」の写真を見るだけでもいい。もはや、言葉は不要だ。「しるし(シーニュ)」を読み取るまなざし、<見つめている眼>がここにはある。

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「ベカ」―歌の祭―

西洋音楽は旋律を重視する。時間の流動性、事件の反復、いわゆる「方向」の音楽。

インディオの音楽に方向はない。持続もない。始まりも終わりもなく、絶頂もない。

インディオたちは楽器を必要としない。葦笛と口だけで十分だ。インディオは《芸術》を必要としていない。音楽は特権的なものではなく、遍在的に、恒常的に存在している。

インディオの音楽はひきがえるの鳴き声に似ている。インディオはひきがえるになることができる。

インディオは自己を表現すること、自分を個別化することを恐れる。世界と和解するということ。

「カクワハイ」―悪魔を祓われた肉体―

「絵画」という《天才》の芸術は、個の芸術である。「個人の無力さと支配欲、死への恐怖を証明するためにのみある」。

インディオの「しるし」は自己表現を求めない。インディオは《必要な》線と色彩を心得ている。インディオはすでに存在している「しるし」を浮かび上がらせるだけだ。

必要なものは「才能」ではない。超自然的な能力、極端な感受性は必要ではない。インディオの絵は「道具」だ。

インディオの記号は悪を防いでくれるものであるとともに、悪を作り出すもの。

インディオの絵の下地は皮膚である。インディオは皮膚に模様を描くことによって、「意識の冒険」を体験することができる。

「皮膚は、画布のように用意されねばならず、描くという行為のための、絶えざる配慮の対象である。この配慮が、インディオの皮膚を、夢想の下地とするのであって、そのためにインディオは多くの時を費やす。綿密に毛を抜き、洗い、磨き、軽石をかける。疣や、吹出物のようなあらゆる余計なものを取り除く。長いあいだ香水に浸け、樹液でマッサージし、柔らかくし、鞣すのだ。皮膚は、もはや、時間や、光や、気候の変化にあらがうあのざらざらした、毛だらけの男性的な表面ではない。それは、すべすべした、中性的な、そして理想的な画布となり、そこにおいて呪術的な模様の渦巻が、断絶も、障害もなしにやすやすとくり拡げられ得ることになるのだ」。(p.126)

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